元副部長にお話し頂きました
3.11に思うこと
13年前のあの光景は、鮮明に脳裏に焼き付いている。
当時、一般病棟の看護師長であった私は、朝から持病の眩暈があり、昼食を早々に切り上げ、病棟の処置室で休んでいた。
いつの間にか眠ってしまったが、13時15分からの病棟勉強会開始のため、副師長に起こしてもらった。
勉強会を終え、14時頃だったか、用事があり病棟を離れエレベーターに乗ろうとしたところ、ドンッと割と大きな縦揺れがきたので、エレベーターには乗らずに病棟に戻った。
その後、個室入院中の患者の部屋にラウンドに入った。その瞬間だった。
自力では立っていられず、恐怖で声が出なかった。病室のベッドや床頭台が大きく揺さぶられ患者も必死で窓にしがみ付いていたように記憶している。
病棟の廊下の電灯が非常用電源に切り替わりオレンジ色に点滅していた。あちらこちらで、悲鳴が聞こえた。
自分の眩暈はどこかに吹っ飛んだ。揺れが一段落し、直ぐにその日の日勤看護師の安否確認をし、誰もケガ人はいなかった。
受け持ち患者の安否確認をスタッフに指示したが、1名だけ確認が取れず。リハビリ室にいるはずが連絡が取れず。
その後、リハビリ室から患者がいると連絡があり、1階のリハビリ室から患者一人で6階の病棟に戻ってくるには危険が伴うので、スタッフ1名をリハビリ室に迎えに行かせた。
その日は金曜日で、外科系の病棟であったので手術の真っ最中の患者もいたが、幸いにも手術の終盤で無事に閉創となった。
6基あるエレベーターは全て停止となったため、術後患者は、手術室と同じ階にあるICUに収容となった。
テレビはつかず、何が起きているのかが分からないままに時間が経過した。病院にいないスタッフの安否は、各スタッフが自主的にメールなどで全員の無事を確認することができた。
その後、上層部より、退院可能な患者は、早急に退院するようにと指示がでた。
その時の窓の外には雪がちらついており、家族と連絡が取れない患者が殆どのため、帰れない患者も多くいた。
余震に怯えながら入院生活を送らなければならず、点滴が不要な患者はベッドを廊下に出して6人部屋に布団を敷き詰めて励ましあいながら過ごした。
暖房はつかず、本当に寒かった。非常用電源はついていたが、最低限の使用に限られた。
お湯は出ないためペットボトルに水を入れて古い電気ストーブを引っ張り出してきて、ストーブの前にペットボトルを置いて温めた。陰部洗浄には十分な温かさとなった。天気の良い日は、窓の近くに置き、太陽光で温めた。太陽エネルギーがあんなにも有難いと思ったのは、あの時が初めてだった。入院患者の災害時の非常食は病院として、1週間分の備蓄はあるが、ガスが使えないため温かい食事の提供は出来なかった。缶詰やパサパサとしたパンなどで、お世辞にも満足できるものではなかったと思うが、患者さん誰一人として文句を言う人は居なかった。もし、嚥下食患者がいたら、食事の提供に苦慮したことだろう。震災でのサバイバルでここに記したのは、ほんの一部です。
3.11を振り返ると、あの時のスタッフには感謝しかない。自身のライフラインが止まっている中、被災にあいながらも良く頑張ってくれた。幼い子供がいるスタッフや介護をしているスタッフは出来るだけ勤務の配慮をした。スタッフ自身も被災しており、ライフラインが断線している中での勤務の継続はやはり、厳しいものがあった。一人暮らしのスタッフは病棟の休憩室に雑魚寝で数日を過ごした者もいた。
3交代の当病院では、深夜勤務後に6時間ほどの仮眠をとってもらいその日の準夜勤務をしてもらったこともあった。
沿岸部の肉親と連絡が取れなくなり、最悪の事態となったスタッフもいた。あの震災で2万人近くにの人たちが亡くなり、そのスタッフの肉親は故郷で荼毘に付すこともできずに関東までご遺体を搬送しての葬儀となった。本当に様々なことがあり、毎日毎日、その日の出来ることを一つ一つこなしていたように思う。師長であった私は、夫と小5、中1の子供、80代の母と同居していたが、震災直後から連絡がとれず、不安なまま師長業務をこなした。停電となり、夫が携帯電話の電源をオフにしたために連絡が取れなかったのだが、ひと声家族の声が聞きたかったと思う。自宅に帰れたのは、13日の朝4時。まだ暗い中、タクシーを捕まえることが出来、自宅に向かった。夫と子供たちがリビングで一緒に眠っており、母も無事で涙が出てきた。家族全員の無事を確認し、必要な着替えを持ち、10分ほどでまたタクシーで病院に戻った。家のことは夫に任せっきりとなった。誰もが食べるものが無く、夫が自転車で東奔西走し、食料の調達をしてくれた。
余震が続き、子供たちが不安の最中にいるときに、母親としての私は何をしていたんだろうと思うときがある。
師長職にウエイトを置かなければならなかったのだが、同じ状況がまた発生したら、どうするのだろうと自問してしまう。
今回、能登半島の地震災害で多くの方が被害にあわれ、3か月近く不安な日々を送っている。
その中には、多くの看護師長がいると思う。その時々に考えられること、出来ることを一つ一つ乗り越えていくしかないと思う。
眠れないこともあるでしょう。しんどくて涙が自然と流れてくるでしょう。
師長でも、泣いてもいいし、弱音を吐いてもいいし、投げ出したくなることもあるでしょう。
そして、その後にまた、歩き出せばいいんじゃないかな。今の能登半島が、出来るだけ良い状況になることをお祈りしています。